2011年7月15日金曜日

日独交流150周年(2)

(前回からの続き)
 江戸幕府がプロイセンと日普修好通商条約を締結したのは、年の暮れも押しせまった万延元年12月14日。西暦では1861年1月24日、今年はそれから150年目にあたる。 
 この条約は、安政年間に締結された米、蘭、露、英、仏との「安政五か国条約」と同様、日本に不利な不平等条約であった。
 幕末には悪いことがあるとすぐ改元してわかりづらいので、ここで西暦と元号の関係を整理する。なお、できごとは主に条約関連のものを記載した。日付は旧暦で表示した。 
 1858年 安政5年  6月19日 日米修好通商条約締結
              7月10日 日蘭修好通商条約締結、その後7月中に、ロシア、イギリス、
                    フランスと立て続けに修好条約を締結(以上、安政の五か国条約)
 1859年 安政6年  6月2日 神奈川(のち横浜に変更)、長崎、箱館で米、蘭、露、英、仏
                   と自由貿易を開始
                  (西暦では7月1日だが、私の住む横浜では毎年6月2日を開港記念日 
                   として祝っている。この日は横浜市立の小中学校は休みなので、子
                   どものときはうれしかった)
 1860年 安政7年  3月3日 桜田門外の変。大老 井伊直弼斬殺される。
                  (開港によりその後の繁栄の基礎を築いた井伊直弼は横浜の恩人。 
                   今ではみなとみらい地区を見下ろす丘にある公園に、港の方向を
                   眺める井伊直弼像が立ち、その公園は井伊掃部守(かもんのかみ)
                   にちなみ掃部山公園と呼ばれている) 
      万延元年  3月18日 江戸城本丸炎上により万延に改元 
 1861年         12月14日 日普修好通商条約締結
        万延2年
      文久元年  2月19日 辛酉革命説により文久に改元(この年の干支は辛酉)
 1862年  文久2年   8月21日 生麦事件
 1863年  文久3年
 1864年    文久4年
       元治元年  2月20日 甲子革命説により元治に改元(この年の干支は甲子)
 1865年  元治2年    
                 慶応元年   4月7日 前年に勃発した禁門の変と京都大火により慶応に改元         
 1866年 慶応2年   
 1867年 慶応3年   10月14日 大政奉還

日普修好通商条約が締結されたのが、万延元年。プロイセン公使館を探す手がかりとした地図は文久二・三年の横浜地図なので、条約締結から1~2年。最初は他にあったものが(場所は不明)、この地に移ってきた。海側がプロイセン、その後ろがオランダとなっている。
 しかし、横浜開港資料館で見た慶応年間の横浜地図によると同じ場所はフランス領事館とオランダ領事館が並列している。その地図にはプロイセン領事館の位置はどこにも示されていないが、2~3年でまた他の場所に移ったのだろうか。
 1871年の普仏戦争でフランスを破りドイツ統一を成し遂げたプロイセンが、その4~5年前、逆にフランスに追い出された(?)形になっている。
 横浜開港資料館は、関東大震災後に再建された旧英国領事館。今でも当時の状態で保存されている。プロイセン公使館や他の在外公館もこんな感じだったのかなと想像して写真を撮った。

(横浜開港資料館の公式サイト)
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 さて、横浜に繁栄をもたらした列強との条約、開港であったが、不平等条約であったため、明治政府に外交上の大きな問題を残すことととなった。
 それでも明治政府の懸命の交渉、日清・日露戦争の勝利による国際社会での地位の向上などにより、長い年月がたってようやく欧米列強との不平等条約は改善された。日独間の治外法権が廃止されたのは条約締結35年後の1896年(明治29年)、関税自主権が回復したのは、なんと50年後の1911年(明治44年)であった。
 しかし、日独関係はこのあたりから対立の構図が際立ってくることになる。
(次回に続く)